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2014年6月27日金曜日

「死」について想うこと

40も半ばを過ぎると、「近しい人の死」というものに一度や二度は直面する。
僕もこの歳で3度、大切な家族の死を体験した。

どの体験もそれぞれ違うものだったので、感じ方も違うし、今でもその意味というのはそれぞれ違うものだ。

3度の経験を経て、10年前には思ってもいなかった想いが、ふと気づくと今は心のなかにハッキリと存在している。

「自分が死ぬ時が来る」という事

いえいえ、別に病気で死期が近いとか、生きる希望を失ったとか、そういう事を吐露したいわけではありません^^;

けれども、30代の時にはほとんど考えたこともなかった「自分の死」というものが、40代になった今は明確に自分の人生設計の中に入り込んで来ている。

僕にとっての「死」は「自分の人生のお終い」ということとは別の意味を、自分自身で抱え込んでいる。

色々な意味で「社会との決別」だ。

幸いにして僕は、生きながらにして希望を失うようなことも今のところは無く、仕事にも家族にも、分相応な程度に充分満足して生きていられる。
だからこのまま生きられれば、「生物としての死を迎える前に、社会的な存在として人間の死を迎える」という悲劇には見舞われずに済みそうだ。

けれども、僕の周囲にはそういった「社会との決別」をせざるを得ず、けれども「生物としての死」を迎えることも出来ず、居るという存在が、チラホラと見え隠れする事がある。
そういう事をふと感じたり、なんとなく見聞きするたびに、それが他人ごとではないのだというある種の恐怖感も感じたりする。

この感覚も30代の頃にはまったくなかったことだ。

年齢を重ねるということは、こういうことか?

単純な足し算引き算をすれば、これまで生きてきた時間よりも、これから生きられる時間のほうが短いという計算結果を認識するべきなのは、もっと早い時期でも良かったはずだ。
けれど、40歳ではそういう感覚にはならなかった。
41歳の春でもそうはならなかった(まだバカボンパパとの比較なんていうおバカな表現に明け暮れていた)

どうして・・・?47歳の今年、そういう想いを自覚するようになったのか?

それはさておき・・・

自分の人生の最後に、どうなっていたいのか?
そんなことを、ふとした瞬間に何度も想うようになって、思い描く事がある。

人生の最期に自分が何を成したか思い返して、ひとつのことを全うできたと思えるほどの人はそう多くないし、そう思うほど一つのことに没頭することを良き人生だとも、僕はあまり思わない。
何事も無くつつがない暮らしぶりで人生を過ごし、誰をも悲しませることなく、誰をも傷つけることなく、どこにでもあるような平凡な人生を過ごすことに、素朴な幸せと憧れを感じる。

そして出来ることなら僕は、この身が生物的な死を迎えるときに、社会的な存在としての死も同時に迎えたいと願う。
自分の死が誰かを悲しませることになるのなら、それはこの人生の最期に自ら望んだ生き方に背いてしまうことになるだろうから・・・誰よりも永く生き、全てを見届けて少しずつ社会からフェードアウトして、誰をも悲しませることなく。

けれどもそれは、まだずっとずっと先にあるべき瞬間の話。
それまで、一生懸命生きる・・・それが自分の死について想うときふと考えることだ。

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