物事を「分かりやすく平易な言葉できちんと説明できる」こと。
それが本当に頭の良い優秀な人の能力だと思う。
若い頃・・・20代の頃から僕はそう考えてきていて、そうではないという様々な意見や色んな体験を通して50代も最終盤にかかった今でも、この考えは1ミリも変わっていない。
物事を難しく捉え難しい言葉で説明する・・・それは「能力のない人」あるいは「自分だけが分かってれば良いと考えている」人がすることだと僕は思う。(思考過程のごく単純な部分を捨象してしまって難しい部分だけを取り上げる、というのもまた同じ類だと思う)
なぜなら、この数十年のデジタル化・IT技術の進化と社会の変化が如実に物語っているからだ。
「物事は、非常にシンプルで単純なことの積み重ね・連環で成り立っている」と。
デジタルとITは、どこまで発展してどこまで進化しても基本は「イチかゼロか」の世界で、それが膨大に積み重なっただけの話だ。
イチかゼロか?の二者択一だけの世界が、何千万・何千億と集積されるとリアルな色彩や色や触覚と区別がつかないほど多様な世界を作り出すのと同じように、物事は、それが科学であれ宗教や神学であれ、実はとてもシンプルなことの積み重ねで出来上がっている。
学問や言説は全て、複雑(に見える)世の中の事象や仮象を説明し未来を予測するために営まれている。
だとしたらその説明は最もシンプルな事象からどんな事が積み重なっているかを理解し、それを説明する事が必要だ。
例えて言えば、複雑に絡まった糸や紐、PCやオーディオのケーブルを、一つ一つ丁寧に解きほぐすと最後には絡まった線はいくつかの単純な線に整理されるのと同じように。
難しいことを難しい言葉で説明しようとして「簡単な言葉で説明するなどというのはポピュリズムだ」などと言うのは、言ってみれば絡まった紐をさらにぐちゃぐちゃに絡ませたまま人に手渡すようなもので、それでは何も与えないし伝えない。(どんなにグチャグチャに絡まった紐を渡しても、このくらいは簡単に紐解いてほぐすことが出来るはずだ、それが出来ないなんてのはダメだ、という態度はそもそも根本的に矛盾している)
「物事の全ては単純な部品や要素に分解できる」などと安直な事を言うつもりはないし、それはむしろ間違っていると思うけれども、「分解できない」ことと「単純な事柄が積み重なって成り立っている」ことは矛盾しない。
人間の体が本当は「分解」などできようはずもないけれど、体の中はきちんと単純な何種類かの細胞や要素が膨大に積み重なって出来上がっているのと同様だろうと思う。
臓器や細胞だけをかき集めてきて精密に再構成したところで「一人の人間」を作ることは出来ないのと同じように、もちろんシンプルな事象や仮象だけをかき集めて組み立てたところで生々しい現実社会の出来事や物事は作り上げることは出来ない。
けれどもだからといって「ほら見ろ、物事はそんな簡単なことではないのだ」と難しいことを平易な言葉で分かりやすく説明することを放棄してしまうのは、情報を受け止める側(=伝えようとしている相手)に対して、とても卑怯なことだと思うので、僕は今でも、物事は「どんなに難解なテーマの話でも、分かりやすく、平易な言葉で説明できるように」ということを心がけている。
あ、けれども、そこそこ長い人生経験から「人はそれぞれ、理解しやすい言語体系や言語文化というのが違う」ということも様々知ったので、いつも自分の物言いを押し付けて「オレの言ってる事は平易な言葉なんだから理解せえ」というつもりもありませんけれど(^_^;)
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