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2018年5月14日月曜日

考えることについての誤謬

30年も前に大学で学び、当時は衝撃的な感銘を受けつつも「所詮、思索の中での話だよなあ、、、現実社会はそうはいかない」と、そう思っていたことが、現実になりつつあることにふと思い至って、備忘録のつもりで書いておこうと思います。

30年前に学んだこと、というのは僕のことを多少でも知ってる人なら容易にご想像できるように、哲学のゼミでのこと。

「考える」とはどういうことか?

人が人たるための重要な意味を持つ考えるということ。

どうやったら最適な解が得られるか?それを追求するのは考えるという行為ではないと知り大いに刺激を受けたました。
当時師事していたゼミの教授はこの事をこう語ったのです。

「与えられた条件や制約のなかからどうやったら最も目的や目標に近い答えを導き出せるか?、、、そんな事は、それがたとえどんなに複雑なものでもいずれコンピュータが代わりに導き出してしまうようになります。そういう 合目的的なロジックの選択をもって、人の考えるとはこういう行為だと、そう解釈してしまったら恐ろしい間違いを犯してしまいます。

人の考えるという行為は、もっと深く、根源的な行為を指すのだと思います。」

あれから30年(きみまろか(笑)?)。

まさかあの時何ヶ月間も毎日議論し思索し続けたことが現実社会での大きなテーマになるとは思ってもみませんでした。

「精神の生活」でこのことを深く掘り下げ、思考することと選択することとは根源的に違うと説いたハンナアアーレント。

彼女のその考えのスタートは歴史に類を見ないナチスドイツの残虐性、悪というものに対して向けられた、長い長い検証と思慮の過程でたどり着いた、全体主義というものに対する危機感だったのだと思います。

簡単に物知り顔で語って良いテーマではない。

歴史や文化や政治に色濃く影響してきたこういう事象を、なにかのプロパガンダに使うというのは、最も避けなければならないことだと、よく理解してはいます。

けれども同時に、今こそ、合理的・合目的的こそ最良と誤謬を重ねる人たちに押し流されないように、私たちひとりひとりが、深く自己の内面に沈んで考えるべき必要があると思うのです。

それぞれの立場で、それぞれの場所で、それぞれの制約の中で。
同じ答えになんかなるはずがない。
ならないからこそ、互いの考える行為の結果と過程を表明して、共有し、対話し、批判し合うことが、より良い「個」を育み、より多様で生き生きとしたコミュニティを醸成するのだと思います。

他の人と同じように
みんながやってるように
誰かが上手くやったのを真似ればラクだし

そういう価値観から少しだけ外れてみると、同じものがとても瑞々しいものに映るかもしれませんよ、ね。



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