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2016年9月12日月曜日

障がいと特性と健常

毎年この時期に考えさせられることが、今年はパラリンピックのこともあって特に色々考えさせられる。

「障がい」という事について

敢えて僕はここで「障がい」と、ヒステリックな人たちが言い出してこうなった書き方を使っておこうと思います。どうしてここで「ヒステリックな」と敢えて扇動的な書き方をするのかといえば、やっぱり「障害」を「障がい」と改めるべきだという話の中にものすごい欺瞞や傲慢が隠されているような気がしてならないから(思慮を深めないままの中途半端な義侠心や正義感や同情は、結果として最も残忍な差別になり得ると思うんだ)。

僕たちが普段、そんなに深く考えずに使っている「障がい者」という概念の意味は、大抵「身体に何か異常を抱えている人」「精神に何か異常を抱えている人」で、お医者さんとかに何らかの認定を受けた人のことを指している。あんまり障がいということに詳しいわけではないごく普通の日常生活を送っている人の間でこういう認識をするのは、特段なにか間違っているというものでもないと思う。

で、その「障がい者」というのは元々漢字で「障害者」と書かれていたけれど、この書き方だとなんだかその人達が社会の害になっているみたいじゃないか、それは酷いんじゃない?著しく差別的な表現じゃない?という話があって、それでせめて害の字を使うのをやめようということで「障がい者」と表記するようになったと。(「障がい者」という表記の由来も概ねそれで間違ってはいないと思う。)
そこじゃないだろ!戦うところは!と強く言いたいというところから話を始めようとおもったんだけど、長くなりそうだからちょっと省いて・・・

でね、何を書きたいかというと・・・そもそも「身体に何か異常を抱えている」「精神に何か異常を抱えている」ってナンだ?という話。
それは「一般的な社会生活を送るのに、少し適さない特徴がある」という話なのであって、基準はその人の身体や精神にあるわけじゃない。

障がいは、一般社会全体が線を引いて作り出しているモノなんだということ。

「義足を付けないと歩行が満足にできない」ということを、「社会生活を送るのに必要な身体の正常を備えていなくて異常をきたしている」というのなら、「裸眼では視力が0.1くらいしかなくてメガネを掛けないと文字や周りが見えない」ということだって同じように「障がい」なはず、裸眼で自動車免許の更新が出来ない人は全て障害者だ(ここでは敢えて害の字を使おうと思う)、ということになる。

「冷静に人と話をするのが難してくて、精神安定剤などの処方を受けないと対人関係が保てない」のを精神的な障がいだから医師の診断を受けて障がい認定してもらうべきだというのなら、「部下のミスを許すことが出来なくて自分の思うとおりに行かないと、すぐに怒鳴り散らす上にネチネチとパワハラを行う上司」というのは明らかに精神的な障害者だ。

社会のそこらじゅうに線を引いて、ここからこっちは異常で、ここからあっちは健常だと、それを決めているのはここからあっちの健常者だ。
ここからこっちはダメと線を引いて拒絶する社会ではなく、許容する社会であるべきじゃないのか?

パラリンピック・・・どうしてオリンピックと分ける必要があるんだろう?同じ時期にやればイイじゃん。
パラを先にやってオリンピックを後にというのも話題になったけど、そんな面倒くさいことするより、同じ時期にやればイイんじゃない?
男子100メートル決勝、義足を付けたクラスの決勝の次に、ボルトとかが出る生身の体の人たちの決勝をするとか。
表彰式は同じ100メートルならボルトの横に義足クラスの金メダリストが並んでたほうが、僕としては感動が半端ないと思うんだけどなあ・・・

ロジャー・フェデラーが「国枝慎吾がいるじゃないか」と言った言葉には、心底敬意を覚えた。

誰かがコラムで言っていた。

メガネをかけてる人とすれ違って驚いて振り向く人なんていないのに、義足を付けて街を歩いてるとものすごく驚かれる。
それは「特性」と受け止めるか「異常」と受け止めるか、社会の問題なんであって、その特性を備えている本人の問題じゃない。
特性を備えているからハンディキャップを与えなきゃ、なにも特徴の無い普通の体の持ち主のほうが優れてるに決まってるんだから、可哀想だと思ってあげなきゃ・・・そういう社会が差別と不幸を生むんだろうと思う。

別視点でもうちょっと書き加えておこうと思う。

障がいというのにも種類と程度がある。
けれども、今の日本の社会の仕組みの多くのシーンが「健常か障がいか」というだけの区別で、いわゆる障がいを抱えた人たちを「健常じゃない」というひとくくりにしてとても雑に扱っている気がする。
障がいの程度が軽くてボーダーラインのあたりにいる人と、社会生活に適合するには相当な努力やケアをしないと不可能な人とを「障がい者」として一括りにしてしまう・・・この辺りにも、障がいということに対する社会の怠慢というか傲慢があるような気がする。(それは、行政とかそういう話じゃなくて、僕ら一般市民レベルでの傲慢であり怠慢だ)

来週から、障がい者支援施設の就業訓練プログラムの講師を務める。
毎年お声をかけていただいて、もう8年近く。

そろそろ僕も、目の前の受講生の皆さんを「異常を抱えている」という認識ではない対応が出来るようになって良い頃だ。

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