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2013年12月3日火曜日

映画「ハンナ・アーレント」を観てきました。

映画「ハンナ・アーレント」観てきました。
日本ではそれほど有名ではない哲学者の思想と半生を描いた半分ドキュメンタリーのような映画です。
映画の中で、アイヒマン裁判の実際の映像が使われていたりして、かなり意欲的な作品。

表面的には、ハンナ・アーレントの著作「アイヒマンリポート」の著作を通じた彼女の半生を描いているように見えますが、よく見ていくと現代社会に多分今も根強く存在している様々な問題を深くえぐり出して、考えさせようというメッセージを強烈に内包しています。

僕は、ハンナ・アーレントについて、評論をするほど情報通なわけではありませんが、学生時代に受講した授業で、講師の先生が何度も繰り返し説いていたことが、そのまんまこの映画に表現されていました。

「平凡でどこにでもいるような人間が、思考能力を放棄=自ら人間であることを放棄することが、人類史上類を見ないほどの悪に積極的に加担することに繋がる」
「物事を考えるということは、自分自身との静かな対話である。その時に人は誰からの束縛も何事からの制約も受けずただ自分の精神と向き合って思考する。人間は思考することによって善悪・美醜を区別する能力を獲得するのであって、考えることをやめてしまうことは、あってはならない」
(→この言葉通り彼女が言ってるわけではありませんが^^;)

前半部分の、アイヒマン裁判でルドルフアイヒマンが弁明・釈明をしている様は、人間が「組織という全体主義の中でモラルや道徳心を放棄して組織への忠誠だけを行動規範とすることが、どれほど愚かしく醜いものであるか」を描き出そうとしていたようですが、この釈明・弁明が、今の日本の政治や行政のテレビ中継と瓜二つのように見えたのは、きっと僕だけではなく、おなじ劇場にいた方の少なからずが連想したと思います。

そして後半、彼女を責める周囲の人物たちがヒステリックで表面的な批判や反論を繰り返すさまは、どこか今のネット社会の報道や匿名発言に似たものを感じたりもしました。

最後のスピーチに、きっとこの映画を制作し、ハンナ・アーレントを敬愛しているのであろう制作関係者の方たちの想いが込められていたのでしょうね。
約10分間くらいのシーンだったと思いますが、「最後の最後、極限的な状態に至るその瞬間であっても、哲学的な思考によって自分の人間たる尊厳を保ち、求めるべきであって、決してそれを放棄してはならない。」(覚え書きなのでちょっと違うかもしれませんが^^;)
25年前にあるゼミ室で聞いて感銘を受けて以来、何度となくこの受け売りを色々な場面で話し、説いては理解してもらえることが少なく、とても虚しい思いをしてきましたが、まさにその言葉を、映画の最後のシーンでこれほど明確に説得力をもって訴えかけてくれたことに、なぜかジーンと来てしまいました。
出来ることならDVDか何かになって、映画を観られない(観られなかった)方にも見てもらえるようになるとイイなあ~などと余計なことを思ったりなんかして・・・^^;

何十年ぶりかに、心から「観たい!」と思った映画を観に行って、そしてその想いの通りグッと心に、思考に響いた、とても貴重な体験でした。

こんな映画平日にわざわざ観にくるのは、よほどハンナ・アーレントのことをよく知っているのか、それとも映画好きなのかと思っていたら、なんか学生さんらしき若い人たちも結構観に来ていて、なぜかちょっと嬉しかったです(多分、大学の授業やゼミで勧められたんでしょうね。ハンア・アーレントの思想やその時代状況などを知る入り口として観ても、とても秀逸な作品だと思います。)

・・・それにしても、午前11時半の開演に10時前から来たのに長蛇の列が出来ていたのにはびっくりしました(苦笑)。
ハンア・アーレント、そんなに人気があるのかなぁ~~^^;?

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