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2013年2月2日土曜日

ふと思い、ちょっと考えてみたこと

Facebookで投稿した、保健所の動物の大量殺処分の話を何度も読んでいて、あらためて思い返したことがありました。

食事を大切に食べて、残さないようにしよう、と。

一見、何の脈絡もないことのように聞こえるだろうと思います。
けれど、僕にとっては自分の生き方、価値観にとってとても重要なことなんです。
久しぶりに、そういう思うところを綴ってみようかと思います。

FBで紹介されていた記事の要約はこうでした。

日本では、行政機関が公の業務として行き場を失った動物たちの殺処分を行なっている。
日本国内の犬猫の数は、人間の子供の数より多い。
この現状の大きな原因の一つが、ペットブームと、それに乗じたブリーダーといわれる業者たちの激増だ。
素人、悪徳なブリーダーが無節操に繁殖、販売を繰り返していること、そして多くの日本人がそれを平然と受け入れ、ブランド品のバッグを買うのと同じようにペットを買い、そして捨てる。
もし犬猫を飼うのに、ペットショップから買うことをやめれば、こういう悲しい連鎖はなくなるかもしれない。

記事ではそうは言ってなかったかも知れないけど、

動物と暮らすことと、命をカネで買うこととは違うことだ。

そういう主張が背景にあるのだと思いました。
つい最近、知人がブログで「動物を飼いたくなったら、ペットショップでは飼わない。」と言っていた事を思い出しながら、思い返したこと。

動物たちが一生懸命生きようと必死になっているのと同じほど、自分は一生懸命生きようとしているだろうか?
単により楽しく、より便利に、より満足に暮らしたいという欲望だけで日々生きてないだろうか?

そう自分に問いかけた時に、昨年9月に亡くしたGOさんのことを思い出しました。
あの子は本当に、生きることに真っ直ぐだった。
もちろん、犬や猫はたいてい、余計な計算や損得なんて考えずにまっすぐ生きてるから、GOだけに限ったことではないけれと、僕はGOさんとの暮らしから、ただひたすらに、真っ直ぐ生きるということを肌で実感して学びました。

あの子は、食いしん坊で、食べられるものは何でも残さず食べたなあ、、、もちろん、それは本能でもあるけれど。

僕にとって、ただひたすら、生きることに一生懸命というのは、GOのあの、脇目も振らず、欠片も残さずゴハンを食べる姿となって強く印象付いています。

途中で放り出すくらいなら、飼っちゃダメだ。
カワイイからと言って、単にそれだけでモノを買うように自分の欲と都合でペットショップから買うのは良くない。
カネさえ出せば、好みの動物を手に入れられると思うのは、命をカネで買うことにもなりかねない。

そういう反省をせずに、「自分のカネで買ったんだから」「そうは言っても、転勤でペット禁止のマンションになっちゃったんだから」と言うのは、そもそもカネを出せばなんでも買える、買ったものは自分の好きにしてイイ、という意識がはびこっているからのようにも思えます。

一生懸命生きて、僕にたくさんの大切なものを残してくれたGOさんを思い出すたびに、そしてゴハンを食べてる時にふと、あの食いっぷりを見習おうと、何度も思ったものです。

そう誓った途端に、外食の時に、空腹に任せて大盛りにしたり、一品多く頼んだりすることが、とても罪深い事のように思えて、はばかられるようになりました。
それが習慣になり、普通になったら、何となく分かった気がしたのです。

少し足りないくらいがちょうどよい。
どうしようもなくお腹が減って、それを満たせればイイくらいの食事や栄養量は、ホントに粗食で足りる。

余計なモノを食べない、その事が余計な食材を浪費しないことにつながると思ったのです。
そしてそうする事で、食べ物だけでなく、過剰な贅沢や無くてもよいものを欲しがる様々な欲を抑えることになるのだろうと、そう思ったのです。
そして、そう思う人間がひとり、ここにいるということを、僅かでもこういう場所から発信することで、何か伝わるかもしれないと思ったのです。

動物の殺処分を、平気で受け入れ、それを助長する世の中の風潮が、たったそれだけの事で変わるとは思ってないけれど、せめて自分の出来ることをキチンとやろうと思った時に、自然とそんな風に思いました。

いささか、思考の過程が支離滅裂だと思うけど。
あまりに自分の個人的な経験や感覚に重きを置きすぎてる気はするけれど。

社会を変えようなどと声高に唱えて派手な事をするよりも、ひとりがひとつ、大きな声も出さず出来ることをやり、ただひたすら一生懸命生きることをまっとうする事が、本当に大切なことだと、心からそう思います。

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